長野オリンピック
98年長野五輪のエピソードです。
モーグル決勝をひかえた里谷多英選手は、控え室で激しく泣いていました。
父に誘われ、スキーをはじめたのは4歳。
休みの日には必ず父と2人で滑りに出かけました。
夏は、走りこみの日々で、辛くて泣いたこともありました。
父の口ぐせは「オリンピックには必ず出るんだぞ」です。
プレッシャーを感じることも多かったのですが、従いました。
父が大好きだったからです。
大会を半年後に控えた97年7月、その父が他界しました。
それは里谷選手には大きな衝撃でした。
スキーをやめようとさえ思いました。
それでもたどり着いた長野。
決勝をひかえ、父への思いが湧き起こり、はげしく動揺したのが、あふれる涙につながったのです。
そのときコーチがそっと語ります。
「思いをすべて吐き出しなさい」
思い切り泣くと、気持ちは静まりました。
里谷選手は胸に父の写真をしのばせました。
スタート。
何も聞こえない。
コースだけが目に入る…。
結果は、金メダル。
里谷選手は後に語りました。
「父と一緒に滑りました。でも私のために滑りました」
長野五輪の滑りは、亡き父への変わらぬ思い、そしてさらには自立をつげるものでもあったのです。
父の教え
ゴルフ、石川遼選手の若き日のエピソード
お父さんの「プロは興行でもあるので、見に来てくれるお客さんに満足感や感動を与えなくてはならない。ただ上手いだけではだめ。勝つことだけではなりたたない。人間性も備わってなければならない」という方針は徹底していました。
週末、コースに連れていくと、子どもとラウンドすることを嫌がる人が多いなか、「この子と一緒に回ってもらえませんか」と頭を下げて、わが子を入れてもらいました。
自分はバッグを担ぎ、時にはカートを引きながら、息子のプレーを見つめました。
昼食時には、息子はクラブハウスのレストランで大人と食事をとらせ、自分は車に戻り、持参したオニギリですませました。
礼儀やマナーを大人との会話のなかで身につけさせようとしたのです。
さらに、自分ではクラブを握らなくなり、趣味も一切やめました。
移動は、いつも中古のワンボックスカーです。
また、インタビューでの爽やかな笑顔もこの感謝ゆえでしょう。