「水の声 瀬戸内寂聴」
水の声が聞きたい。
古里の家の裏の小川の水の声が。
死を待つだけの老人がうわ言をいった。
ひ孫の少女がその日から、
老人の枕元に坐り、赤い玩具のバケツの水を掬いあげては落としはじめた。
少女がつくった小川の囁き。
貝殻のように薄い少女の掌の窪みから、水はきらきら輝きながらくり返しバケツに落ちていく。
さらさらと、さらさらとひっそりと、
日がな一日さらさらと。
三四郎
夏目漱石「三四郎」の主人公の「この国はいずれほろびるね」という有名なセリフがあります。
漂流者の生きかた(五木寛之・姜尚中 /東京書籍)を読みました。
「広辞苑では、「鬱」が「草木の茂るさま。物事の盛んなさま」という意味になっています。「鬱勃たる青年志士の野心」、「鬱蒼たる樹林」という言い方もある。こうした「勢いよく盛んなさま」という意味は鬱の第一義で、「鬱々たる気分」というような否定的な意味の方は本来は第二義なんですよ」
「それから、僕の感覚では、鬱の中には、「憂」という感情と、「愁」という感情のふたつがある。「憂」というのは外に向けて発せられる気持ちであって、国を憂えるという「憂国」の「憂」です。子どもの教育はこれでいいのか、地球環境はこのままでいいのかと、強く憂うるホットな感情です。もうひとつが「愁」です。人間の生き方を考えるときに、人間とは何かという問いに、おのずと浮かび上がってくる、しーんとした感覚。それが「愁」だと思うのです。どこかクールな感情ですね。このホットとクールのふたつの面が鬱にはあると思うのです」
「今の若い世代に不満を持つとしたら、皆自分探しというものは一生懸命するけど、「憂」という、他者へ向けての気持ちが弱いのではないかな」
五木寛之さん、私の教え子たちは、「他者に向けての気持ちが弱い」かというとそうでもないですよ。