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シンプル

本当にいい音楽とか、いい絵とかには、何か非常にやさしい、当たり前なものがあります。 
真理というのも、ほんとうは大変やさしく、単純なものではないでしょうか。現代の絵や音楽には、その単純なものが抜け落ちています。 
そしてそれは現代人の知恵に抜けていることを、私は強く感じます。たとえばデカルトには、何か近代人の及びもつかない単純性がある。明るくて、建設的のものがあり、陰気なものは影も形もないのです。けれども、現代の思想には、憂鬱なもの、皮肉なもの、裏に廻ってものを見るような態度、いわば女々しいものがあります。デカルトには実に男性的なものがあって、そこに私は惹かれます。 
徳川家の勃興期の儒学などにも、明るさと単純さがありますよ。大変明るくて、皮肉とか陰気というものが全くない。現代に欠けている一番重大なものは、そういうものではないかと思っています。 

小林秀雄の文章です。恐るべしは、昭和36年のものだということ。8月15日の終戦記念日に長崎で学生との対話の中に出てきています。

令和に生きる私たちは、物事を複雑に考えすぎていないか?を反省すべきだと思います。
いつの間にか、皮肉に、裏に廻って、ものを見る見かたをしているのでは?と。

考える


本居宣長の説明。

「考える」の古い形は、「かむかふ」です。「む」は「み」すなわち自分の身です。「かふ」は「交わる」ということです。だから、考えるということは、自分が身を以って相手と交わるということです。
宣長の言によると、考えるとはつきあうという意味です。ある対象を向こうに離して、こちらで観察するという意味ではありません。
(そうすると、信ずるということと、考えるということは、大変近くなっては来ませんか)

体験型授業というのが、教育業界では流行っています。
ところが、宣長の見方では、教育とは体験型が本来のもの、ということでしょう。

観点別評価という言葉もあります。
「子を見ること親に如かず」というように、親は子と長い間つきあっているから、子どもについて深く知っています。親は、子どもを見るときに観点というものを持ってはいないでしょう。

歴史はすべて現代史である

クローチェの言葉です。歴史というのは正しく調べることではなく、昔(古え=いにしえ)の人の手振り・口振りが想像できるか?が大切だといいます。

小林秀雄も言っています。
「諸君にとって子どもの時代は諸君の歴史ではないか。日記という史料によって、君は君の幼年時代を調べてみたまえ。俺は10歳の子どものときに、こんなことをいい、こんなことを書いている。それは諸君にとって史料でしょう。その時、諸君は歴史家になるでしょう。10歳のときの自分の日記から自己を知るでしょう。だから、歴史という学問は自己を知るための一つの手段なのです」

せっかくの受験勉強が、合格の一瞬のためだけだと思ったらもったいない。
歴史的なものの見方が見につけば、一生の財産です。

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