古典を知ることで、視野が広くなります。今回は、「エミール」をご紹介します。大学で教員になるために教職課程をとると、必然的に学ぶことになります。
・18世紀のフランスで活躍したジャン=ジャック・ルソーの「エミール、または教育について」は「社会契約論」と同じ1762年に出版されました。「社会契約論」が自由な社会の「制度論」を展開したのに対し、「エミール」は自由な社会を担いうる人間を育てるための「教育論・人間論」を展開しています。この二つはいわば車の両輪であり、二つで一体の書物だと言えるところがあります。
自由な自治の社会が成り立つためには、公共の利益を考え実現しようとする姿勢が必要です。自分の利益はもちろんですが、他の人たちの言い分もよく聞いて、自分も含めたみんなが得になるようなルールを作っていく。そういう姿勢をもつ人間は、どうやったら育つのか。これは、ルソーの大きな思想的な課題でした。ですから、教育論である「エミール」の目的の一つは、「みんなのため」を考える人間をどうやって育てるか、ということにあります。もっとも、みんなのためと言っても自分を犠牲にして国家に尽くすということではなく、自分も含むみんなの利益をきちんと考える、ということです。
では、現代の私たちは、自分の中に自分の生き方の基準を持つ、自由で自立した人間になっているでしょうか?いまの日本の子どもたちや若者たちは、空気を読むということに必死だと言われます。そのため「個性的」という言葉が、時には悪口に、つまり「空気が読めないヤツ」ということの婉曲な言い回しになっているのだそうです。「俺はこれがしたい」「わたしはこれで満足だ」という、自分なりの基準を持って生きることはますます難しくなっているように思えます。
小さい大人
・18世紀のフランスでは、子どもは「小さい大人」としか見られていませんでした。貴族やブルジョアの富裕層の間で「優れた教育」といえば、古典を大人顔負け暗唱させるといった類のものだったようです。しかし、子どもを小さい大人としてみるのではなく、ちゃんと観察しなさいとルソーは言います。子どもの発達には段階があり、それぞれに応じたふさわしい教育があるはずだというのです。ルソーはそういう考え方をもっとも早く述べた思想家でした。
・ルソーは、15歳くらいまで、他者との競争心や、他者から褒められるために頑張るという動機を完全に取り除くように環境を設定しています。家庭教師が見守る中、子どもは毎日野原を走り回って遊びます。「自分が」楽しい、気持ちいいとか、自分の好奇心や必要性が満たされるということを大事にして育てるのです。このように、他者に褒められるために右往左往するような人間にしないという方針は実に強く打ち出されています。このように、自分自身のために生きるという軸をしっかりとつくった上で、15歳以降は、他者に対する思いやりや共感力を育てていきます。そこから公共心、つまり、自分のためだけでなくみんなのために役立つ人間になる、というテーマが出てきます。「エミール、または教育について」は、「近代教育学の古典」とも言われますが、ここで語られるルソーの教育論は、一人の子どもを自立した人間として、さらには自由な社会を担っていくことができる人間として育てることを目的としています。すなわち、名誉や富や権力といった社会的な評価で自分を測るのではなく、自分を測る基準となる軸を自分の中に持つこと。そして同時に、他者への共感能力に基づいた公共性を持つこと。それらをもった上で、民主的な社会の一員として、お互いの意見を出し合いながら、みんなの利益となる「一般意志」を取り出してルールを作る。つまり自治しうる人間を育てるーこれは理想の教育についての、一種の壮大な実験ともいえます。