・「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
天が人間を誕生させたとき、人はだれしもが同じ身分に生まれ、生まれながらにして貴いとか賤しいとかの差別はなかった。「実語教」(江戸時代に寺子屋で使った教科書)という本に、「人、学ばざれば智なし、智なきものは愚人なり」とあるように、賢い人と愚かなる人との差は、学問をしたかしないか、によって決まるのである。
・自由と自分勝手との違いは、他人に迷惑をかけていないかどうかで決まる。迷惑をかけていれば、それは自由とはいえない。
・むかしは、みな世の中の因習にとらわれて、有能な者でも、その望みを養うための目標すらつかめなかった。だが、いまは違う。こうした因習は一掃された。学生諸君には新しき世界が来たように、いまやなろうと思えばいかなる職業にも就ける。農業でも、商業でも、学者でも、役人でも、なろうと思えばなんにでもなれる。本を書き、新聞を出し、法律を講義し、芸術を学び、学者となり、産業をおこし、政治家になることもできる。要はやる気である。
・小さな安定より苦労して大きな成功を目指せ。大きな成功のためには、どうすればよいのか。それは、決して自己満足しないことに尽きる。
・相手のことを考えるのが、人との付きあいの第一歩。また付き合い上手は、明るく元気な人である。
・学問をするには、その目標を高きに置くことである。私が密かに見るところでは、どうも現代の学生は、困難を避け、安易を好む傾向があるようだ。およそ世の中の事物で、簡単に手に入るものはさほど貴重ではない。得るのが困難なものほど貴重である。
・むかしから多くの有能な人物たちは、努力を積んで世のため人のために尽してきた。
これらの人々の心中を思うに、彼らはただ自分の生活を豊かにするだけで満足しなかった。彼らは社会におけるみずからの責務を重んじ、志を高く持って研鑚を重ねたのである。
いま、学問に励む者は、こうした人物たちの文明の遺産を受け継ぎ、まさしく進歩躍進の先頭に立っているのだから、さらなる文明を開くよう、いっそうの努力を怠ってはいけない。
そして、われわれが先人の恩恵を受けたように、今日より数十年の歳月が経ったのち、人々から同じような崇拝を受けるようにしたいものである。
・人間にはそれぞれに意志がある。意志とは事をなすときの決心である。世の中の事業は偶然からなるものではない。「こうなりたい」との志があるからできるのだ。善い行いも悪い行いも、すべてこれらは本人の意志によって起きている。
・親に孝行することは人間として当然のことだ。老人には他人でも親切にするだろう。ましてや自分の父母に情を尽さない子どもがいるだろうか。それは利益や名誉のためではない。親孝行は生まれもった人間の情として尽くすものなのである。
・世の中の人みんなが、自分のことだけに満足し、その小さな満足に留まっているならば、今日の世界は、天地の始まりのときの世界と異なることがないだろう。
・知識、見聞を広めるためには、他人の意見を聞き、自分の考えを深め、書物をたくさん読むことである。だから学問をするには文字を知ることも必要だが、むかしの人のようにただ文字を知ることが学問だというのは、大いなる間違いである。文字を知ることはあくまで学問をするための道具であり、家を建てるのに必要な金槌やノコギリと同じことだ。それらは家を建てるのに必要な道具であるが、その道具の名前だけ知っていても、家を建てることを知らなければ大工とはいえない。同じように、文字を知っていても、物事の道理をわきまえない者は学問を志す者とはいえない。これを「論語読みの論語知らず」(知識だけを知っていても、それを実行しなければ学んだことにはならないとの意味)というのだ。
・いったん悪い習慣となってしまうと、それを改めるのは簡単ではない。