1960年〜70年代にかけて、アメリカの哲学者マシュー・リップマンは「子供のための哲学」を始めた。当時のアメリカでは、ベトナム戦争(1955年〜75年)を発端にして起こった学生運動が盛んになっていた。若者たちが集まって平和を求めるだけなら良いが、中には暴力的な言動に及んだり、過激な思想が罷り通った状況が生まれていた。「子供のための哲学」とは、独善的な自己主張とは対極にあるもので、一つの場で他者と共に語り合うことで、テーマを深く探究する力を身につけさせる教育法である。ハワイに渡ると、先住民からアジア系民俗までが混在する島で共生を模索する力をつける目的に使われるようになった。メキシコやブラジルでは、激しい貧富の差や階級を考える教育の一つとして導入された。ここ10年ほどの日本でも、哲学対話(探究と名を変えているケースが多い)が浸透してきたのは、同様の問題が国内で起きているのも一因であろう。
最近、以下の内容と同じようなブログを書いている。
上記の哲学対話の授業は、最近、対談の機会があったフェリス女学院、栄光学園、そして洗足学園の授業では当たり前のように以前から行われてきている。私は、幸運にも授業見学の機会を以前からいただいているので実際にこの目で見てきている。 「学校説明会で、探究型の授業をやっているところがオススメです」と語る中学受験業界の関係者は、余りにも底が浅い。「探究型の授業は、大学入試の総合型選抜に有利」と語る大学受験界の関係者は、中高の教育を大学入試のためだけ(を中心)に行なっていると考えている時点で教育者ではなくビジネスマンである。 (ビジネスマンは決して良くないとは言っていません。お金儲けいいじゃないですか。しかしビジネスマンなのに、教育をそれらしく語る人に、生徒保護者は影響されませんように祈という気持ちです)
