江戸時代の3大画家の一人、谷文晁(たにぶんちょう)のもと田崎早雲という若者が訪れました。早雲は谷文晁の弟子である金井烏洲の弟子。つまり孫弟子にあたる人物で、ちまたで俊才の画家と評判の男でした。
早雲は文晁に会えたことに感動し、丁寧な挨拶をしますが、文晁はそっけなくこう言いました。
「そこの梅の木を描いてみるがよい」
早雲は谷に認められるチャンスと、精魂こめて描きます。しかし。完成した作品を見て、谷は信じられないひと言を放ちます。
「これが絵か。こんなものなら誰でも描けるわ。ああ腹立たしい」
そういって、谷は家の奥へと去っていきました。
その後、早雲はこの日の悔しさをバネに修行を続け、2年もすると彼の絵は明らかによくなっていました。そこで再び師匠である烏洲申し出ます。
「もう一度、私を文晁先生に引き合わせてください。この絵を見ていただきたいのです」
烏洲はその絵の完成度の高さを確認すると、1通の手紙を差し出します。
それは文晁から烏洲に出されたものでした。
「私を訪ねてきた早雲という若者は、とても優秀である。しかし、このままいくと慢心してダメになってしまうだろう。そこで私は今日、彼の慢心を打ち破るために思い切り彼を罵倒した。素質ある若者は国の宝で、私は宝を失いたくはない。早雲のことを、これからもしっかりと見てやってくれ。」
早雲はその後も修行に励み、近代画檀の大家と呼ばれるようになりました。
落穂拾い
フランスの画家ミレーの「落穂ひろい」は、刈り入れが終わったあとの畑で、腰をかがめながら落穂を拾う貧しい農婦たちの姿を描いた1857年の作品です。のどかな田園風景の中、豊かな実りとは裏腹に、貧困にあえぐ農婦たちがいるという対比が表現されています。しかし、そこには人の心の温かさも描かれていました。
当時のフランスの農村には貧しい人たちが多く、無事に収穫を迎えられた畑では、落穂をわざと残しておくという習慣がありました。
それは、少量の穀物を困っている人たちに使わせてあげようという思いやりの心から生まれたものです。
落穂ひろいは、絵の美しさはもちろん、生活の厳しさや働く尊さ、そして人の心の温かさが作品の根底に流れているからこそ、みんなの心を打つのでしょう。