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石に立つ矢

『人の己(おの)れを知らざるを患(うれ)えず、己れ人を知らざるを患う』

⇒人が自分のことを知ってくれないということは、それはどうでもよい。むしろ自分が他人のすぐれた点を知らずにいる方が問題だ。(論語)

『石に立つ矢』

⇒必死になってやれば、いかなることも不可能ではない。「昔、ある武将が、闇夜に歩いていると、大きな虎が伏してこちらをうかがっているのに気づいた。武将は、一心をこらして、ねらいを定め、渾身の力で矢を放ったところ、見事その虎をしとめたように見えた。しかし、近づいてよく見ると、それは虎ではなく、虎に似た岩石であった。しかも矢じりだけでなく、矢羽根(根元)までも岩にめり込んでいた」というのである。この話の面白いところは、はじめから岩であれば、これを射ることもなく、もちろん、不可能を可能にするよう努力することもない点にある。(韓詩外伝)

『人に施(ほどこ)しては慎(つつし)みて、念(おも)うことなかれ』

⇒「自分で、人のためになることをやったということがあったら、それは忘れてしまいなさい。しかし、人に過ちをおかし、相手に迷惑をかけたのであれば、そのことを真剣に考えて、対策をねらなければならない。また、その立場を逆にした場合、つまり、他人が自己に恩となるような行動をしてくれた場合は、決して忘れてはいけない。さらに怨(うら)みを感ずるような行動にでる人がいても、そのほうは、さっぱり忘れよう」(菜根譚)

『耳を貴び、目を賤しむ』

⇒遠いもの、あるいは古いものを有り難がって、近くにあるもの、または身近にあるものをうとんずること。この格言を素直に受け取った場合、「自分の体験や、自らの周囲の人の発言を信用し、尊重することが重要である」というように受け取ってよい。

『断機の戒(いまし)め』

⇒学問や、やりかけたことを中途でやめてしまっては、なにもならないことの戒め。「孟母三遷の教え」で有名な、孟子の母のことばです。母が機(はた)を織っているところへ孟子が帰ってきて弱音を吐いたとき「お前が、学問を途中でやめてしまうことは、私がこの織り物の糸を切ってしまうことと同じである」と教えたのです。

『射は仁の道なり、正を己(おのれ)に求む』

⇒人の歩むべき道理は、弓を射るのと似ている。まず自分の姿勢を正しくしないと弓を射ても的に当たらない。(礼記)

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