『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文春文庫・著石井光太)を読んだ。教育に少しでも関わるもの、国語科を生業にするものとしてしっかりと読んだ。
小4の授業
ある公立小学校の4年生の授業風景。扱っている教材は「ごんぎつね」。小学生のうちからの、アクティブラーニング型の授業というものも考えさせられる。
「この話の場面は、死んだお母さんをお鍋に入れて消毒しているところだと思います」
「私たちの班の意見は違います。もう死んでいるお母さんを消毒しても意味ないです。それより、昔はお墓がなかったので、死んだ人は燃やす代わりにお湯で煮て骨にしていたんだと思います」
「昔もお墓はあったはずです。だって、うちのおばあちゃんのお墓はあるから。でも、昔は焼くところ(火葬場)がないから、お湯で溶かして骨にしてから、お墓に埋めなければならなかったんだと思います」
「うちの班も同じです。死体をそのままにしたらばい菌とかすごいから、煮て骨にして土に埋めたんだと思います」
同じく戦争文学の名作『一つの花』(今西祐行)
あらすじ=戦時中、どの家も貧しく十分なご飯がなかった。ひもじい生活の中で育った少女ゆみ子は、「一つだけちょうだい」と言うのが口癖になっていた。そう頼めば、何かもらえると思ったのだ。イモ、カボチャの煮つけ、何を求めるにしても、かならず「一つだけ」と付け加えるのを忘れなかった。戦争が激しくなり、ついに父親が兵士として戦場へ行くことになった。駅へ見送りに行く途中、ゆみ子は「一つだけ」と言って父親が持っていくはずのおにぎりをみんな食べてしまった。汽車に乗り込む前、ゆみ子はまた「一つだけ」とおにぎりをせがみだす。もうおにぎりは残っていない。父親は不憫に思い、駅構内のゴミ捨て場のようなところに咲くコスモスを摘んで、「一つだけあげよう」と言って渡す。10年が過ぎ、戦争が終わって日本に平和な日常が訪れた。父親は戦争から帰ってこなかった。その代わり、ゆみ子の家の周りにはたくさんのコスモスが咲き乱れていた――。
子供たちの意見の一部は、このようなもの。
「駅で騒いだ罰として、(ゴミ捨て場のようなところに咲く)汚い花をゆみ子に食べさせた」
「このお父さんはお金儲けのためにコスモスを盗んだ。娘にそのコスモスを庭に植えさせて売ればお金になると思ったから」
読解力以前の相手の気持ちを想像する力とかなどが、明らかに不足している。もちろん、センセーショナルな事例だとは思うが、私はいろんな場所で国語力の低下という話をしてきた。中学入試の出典が難しくなっている・・などとの分析とは違う現場からの感覚である。
