雪のいと高う降りたるを例ならず御格子まゐりて、炭櫃に火おこして、物語などして集まりさぶらうに、「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ。」
と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせたまふ。
(「枕草子」より)
訳:雪が高く降り積もっている日のこと、お仕えする中宮・定子様が、たくさんの侍女がいる中で私を指名して、「清少納言よ、香炉峰の雪はどうでしょう?」
と問いかけなさる。私が簾(すだれ)を高く上げると、定子様は満足気に微笑みなさる。
この話はしばしば清少納言の教養と機転を表す話として紹介されます。
というのも、中宮・藤原定子が清少納言に問いかけたこのなぞなぞは、中国の詩人・白居易の「香炉峰下新卜山居」の詩を知らないと解けないからです。
中宮・定子は”香炉峰の雪”を見たかったわけではないのです。香炉峰は中国の山・廬山の峰のひとつで、到底見えるはずもありません。そうではなく、ただ部屋の外で降り積もる雪を見たかった中宮・藤原定子は、簾(すだれ)を上げて欲しくて、清少納言に問いかけたのです。問いかけられてすぐ白居易の詩が浮かんだ清少納言は、簾(すだれ)を高く上げて差し上げて、正解したという話でした。二人の間に共通の教養があって、しかもそれが異国の有名な詩人の一節。そして、機転を効かせて行動に移して正解するという清少納言。こういうやり取りは、一生のうちに何回もできることではないですが、しかしそこで生まれた心の繋がりは、強固なものとなるでしょう。
就職してしまうと教養を磨く機会というのは少なくなります。少なくとも会社に入ったばかりの頃は、目の前の仕事でいっぱいで、私もそうでした。海外旅行や美術に興味を持ったのは、30代になってからです。そう考えれば、中高時代の「ゆとり」というのは、本当は貴重であると思います。私が、大学入試のためだけに中学入試があるのではない、と言い続ける理由です。


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