・哲学は学問というより、生きる「態度」のことです。
・人間にとっての試練、そして決断とは、受験や就職、結婚といったシンボリックなライフイベントの時だけに訪れるのではありません。我々にとっては、何でもない日々が試練であり、「いま、ここ」の日常に、大きな決断を求められているのです。その試練を避けて通る人に、本当の幸せは獲得できないでしょう。
・親が子供を尊敬し、上司が部下を尊敬する。役割として「教える側」に立っている人間が、「教えられる側」に立つ人間のことを敬う。尊敬なきところに良好な人間関係は生まれず、良好な関係なくして言葉を届けることはできません。
・「尊敬とは、人間の姿のありのままを見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のこと」(エーリッヒ・フロム)
・「尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうこと」(同)
・尊敬の語源となるラテン語には、「見る」という意味があります。まずは、ありのままその人を見るのです。自分の価値観を押し付けようとせず、その人が「その人であること」に価値を置く。他者を操作しようとする態度、矯正しようとする態度には、一切の尊敬がありません。
・尊敬とは、言葉でなされるものではありません。しかも、そうやってすり寄ってくる大人に対して、子供たちは敏感に「嘘」や「打算」を察知します。「この人は嘘をついている」と思った瞬間、そこに尊敬は生まれなくなります。
・「子供たちの関心事」に関心を寄せる必要があります。あなたの目から見て、どんなに低俗な遊びであろうと、まずはそれがどんなものか理解しようとする。自分もやってみて、場合によって、場合によっては共に遊ぶ。「遊んであげる」のではなく、自分自身がそれを楽しむ。そのときはじめて、子どもたちは自分たちが認められていること、子ども扱いされていないこと、一人の人間として「尊敬」されていることを実感するでしょう。
・共感とは、他者に寄り添う時の技術であり、態度なのです。
・臆病は伝染する。そして勇気も伝染する。当然、尊敬も伝染していきます。
・歴史とは、時代の権力者によって改竄され続ける、巨大な物語です。人間は誰もが「わたし」という物語の編纂者であり、その過去は「いまのわたし」の正当性を証明すべく、自由自在に書き換えられていきます。
・私(アドラー)は、人間の可能性を信じるからこそ、悲劇に酔うことを否定しているのです。
・教師であれば、自分の学級を、一つの民主主義国家だと考えます。民主主義国家の主権は国民であるのと同じように、学級という国家の主権は教師ではなく、生徒です。
・親、そして教育者は、どうしても子どもたちに過干渉になり、過保護になる。その結果、何事についても他者の指示を仰ぐような、「自分では何も決められない子ども」を育ててしまう。自分では気づかないうちに生徒の自立を妨げていることに気づいて欲しい。もしも生徒たちが自立してしまったら、あなたと対等な立場になってしまったら、あなたの権威は崩れ去ってしまう。あなたは、子どもたち(生徒)と「縦の関係」を築いており、その関係を崩されることが怖いのです。これは教育者だけではなく、多くの親が潜在的に抱える恐怖です。
・他者を救うことによって、自らが救われようとします。自らを一種の救世主に仕立てることによって、自らの価値を実感しようとするのです。これは劣等感を払拭できない人が、しばしば陥る優越コンプレックスの一形態であり、一般に「メサイヤ・コンプレックス」と呼ばれています。メサイヤ、すなわち救世主たらんとする、心理的な倒錯です。
・もしもあなたが、子ども(生徒)から感謝されたがっているのだとしたら、「親(先生)のおかげで」という言葉を待っているのだとしたら。それは結果として、生徒たちの自立を妨げているのだと思ってください。
・褒めることは能力のある人が、能力のない人に下す評価であり、その目的は操作である。
・人間の子どもたちは心理面での「やりたいこと」と、肉体面での「できること」とのギャップに苦しんでいます。周囲の大人たちにはできるのに、自分にはできないことがある。大人たちが手を伸ばす棚に、自分は手が届かない。大人たちが持ち上げる石を、自分は落あげられない。年長者が語り合う話題に、自分は参加できない。この無力感、もっと言えば「自らの不完全さ」を経験する子どもたちは、原理的に劣等感を抱かざるを得ないのです。
・アドラー心理学では、人間の抱えるもっとも根源的な欲求は、「所属感」だと考えます。つまり、孤立したくない。「ここにいてもいいんだ」と実感したい。孤立は社会的な死につながり、やがて生物的な死にもつながるのですから。
・「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのです。それが本当の個性というものです。
・「信用」とは相手のことを条件つきで信じることです。それに対して、「信頼」とは一切の条件をつけないことです。その人の持つ「条件」ではなく、「その人自身」を信じている。物質的な価値ではなく、人間的な価値に注目していると言っても良いでしょう。さらに、私なりの解釈を付け加えるならば、これは「その人を信じる自分」を信じる、ということでもあります。自分の判断に自信がなければ、どうしたって担保のようなものを求めますからね。自己信頼あっての、他者信頼なのです。
・仕事の関係とは「信用」の関係であり、交友の関係とは「信頼」の関係なのです、交友には、「この人と交友しなければならない理由」が、ひとつもありません。あくまでも「この人が好きだ」という内発的な動機に寄って結ばれていく関係です。
・人間の価値は、「どんな仕事に従事するか」によって決まるのではない。その仕事に「どのような態度で取り組むか」によって決まる。
・仕事(分業)をはじめてからの人物評価、または関係のあり方については、能力だけで判断されるものではない。むしろ「この人と一緒に働きたいか?」が大切になってくる。そうでないと、互いに助けあうことは難しくなるからだ。そうした「この人と一緒に働きたいか?」「この人が困ったとき、助けたいか?」を決める最大の要因は、その人の誠実さでああり、仕事に取り組む態度なのです。
愛するということ
・愛するためには、「わたし」だった人生の主語を「わたしたち」に変えるのです。